千日紅

日常ぼやいてます。

妄想の果に

お習字をしていて。もう10年近くになるかな。

 

前は気にもしなかったのだけど今一級やねんけど。

 

最近みえてきたことがある。

 

お習字はもの凄く奥が深いということだ。

 

習字に限らず大きな試験を受けるとき見えない誰かと戦っている。

 

出題者を想像して出しそうな求めている回答を妄想する。

 

お習字は戦っているのは自分自身だ。

 

習字の練習をしていると歴史を知りたくなる。

 

この課題は偉い先人の先生が書いた書物を継ぎ接ぎして真似たものをうちの師匠が書いたものを真似ている。

 

するとうちの師匠の特性や果は大元の先生までどんなひとだろうか妄想する。

 

酒の席で書いたものだったら、お酒で気分軽くなって軽やかなTouchになったのでは?と思ったり。

 

じゃあこの部分のはね方はこうだろうって思うわけ。

 

例えば数式や根拠を追い求めている世界や理屈が存在する世界。理由や理屈。

 

でも、今日理屈では理解できないぶぶんがあっ

た。

 

 

今日は、何を学んだかというと教えて貰ったわけでなく自分で感じた。

 

手首の軟度や固定、あるいは肘や肩の自由度などにより筆使いが変わることだ。

 

長年やってると手首も固まるだろう。

 

まあお習字は手首だけでなく肘や肩をも使うのが正しいんやろな。

そこで

果は半年前にやってもらった肩甲骨剥がしを思い出した。猫背だと肩が前にきてガチガチとなるので

長年使ってない固まったところをほぐして柔らかくして何かを剥がして貰ったことがある。

これ整体?なんかわからんけどたまたま帰りしな通ったところで試し券配ってて、胡散臭くなさそうな爽やか青年だったのでやってもらった。初めてそういうのやって貰ったので新鮮だった。やって貰ったあと気持ち良くて肩も腕も軽くてぐるんぐるん回った。

 

ガッチガチになってるからなー。

 

だから一枚の手本を例えば跳ねひとつにしても、どうやって師匠は書いているのだろうと。

背筋をピンとして眺めるわけだがいかんせん細かいろころが見えなくなってきているので、おもむろに紙を目の前に持っていき跳ねを顔見する。ここで止まるのか筆の角度は。この起筆はどうなっているのか。とこうでもないあーでもないとそこばかり書いているのだ。

子供さんとご邪魔ぜの教室だからテーブルの横はリハツそうなクールな高学年ボーイだったりする。

 

なのにおばあちゃんぐらいのおばはんが、くっそとか頭書いたり半紙を顔見したり、肩のストレッチやブンブン回したりするのを横目になんやこの人と思ってるに違いない。

 

師匠は聖徳太子みたいにどこに目が耳があるかわからんぐらい大勢の生徒さんの習字をみたりもちろん教室内の生徒さんの様子をみなきゃいけない。

 

まじ学校の教室っぽい。幼児〜老人まで入っている。

 

だからきっと、様子がおかしいのはみてるだろう。

 

実に教室に行ったのは2ヶ月ぶり。

 

2ヶ月分の努力の証を評価していただいた。

 

でもダメ出しを3回くらった。

 

添削の時、どうしても起筆がわからなかったので真剣に聞いた。

 

教えて下さったが今はそこは求めていないらしく

 

つまりその質問はもっともっと上の求められているものだった。

 

で,もっと上がってくる可能性があることを言われた。

 

同時に基本的なことをスルーして高いことを目指しているんかな自分と思い反省する。

 

 

いじょうのように自分で必要性を感じないと

 

成長はないな。教わるだけじゃ駄目だなと今更ながらこの歳になって思う。

 

 

 

 

 

 

奥深い。

 

書ってやつわ。

 

凄い世界に足を踏み入れたものだ。

 

模倣の極み。

 

そして、自分との自問自答。

 

書で感情がでたり生きかたがでたりするそうだ。

 

 

 

水墨画がやりたくて筆使いが知りたくて始めたのに

不思議なことだな、今まで見えてなかった世界がちょっとだけ見え始め、

 

その入口に立っているような気がする。